愚者、ぼんやりと月へ行く。

のらくら、いこうよ。

平成最後の9月1日に中毒死。

 

平成最後の夏が終わりました。

 

これから、平成最後の秋、平成最後の冬、平成最後の春、平成最後のハロウィン、平成最後のクリスマス、平成最後のポッキーの日、平成最後の大晦日、平成最後の除夜の鐘、平成最後のゆく年くる年、平成最後の年男、平成最後の初日の出、平成最後の成人、平成最後のニューカマー、などが出てくるのでしょう。

 

もう既に陳腐に感じる「平成最後の〇〇」。

なんてったって今年に起こる物事すべてに冠する事が出来てしまう。そりゃ使いたがるよなあ。でも、確かに、普段何気なくやってる事が「平成最後」って言うだけでなんともドラマチックに感じられる。最後ってのが名残惜しさを助長させるのだろう。捉え方ひとつで人生はいくらでも豊かに出来るという、ある種のライフハックとも言える。そういえばこの間かき氷食べたけど、もしかしたら僕にとって、あれが平成最後のかき氷だったのかも知れない。

 

ただ、図らずとも最後になってしまうものだって沢山ある。それこそ、演劇がそうだと思う。

 舞台は映像と違って生モノであるから、とある公演があったとして、その公演は終わってしまえばもう二度と見る事は出来ない。ましてやその公演中だって、毎ステージ同じ事をやっているようで、実際は細かな違いは生まれてきてしまう。それが生モノの良さであり魅力だと思っている。つまり、毎回がその時の初演であり、やる方にとっても観る方にとっても、それはいつだって最後の公演になるはずだ。

なんか観念的な話になってしまったが、やる方にとっては胸に刻んでおきたい事なので書いておいた。

 

そんな事を思いながら今日は、高田馬場ラビネストで劇団「地蔵中毒」を観てきました。この気持ちに一番そぐわない観劇だった。

例に漏れず、内容についての記憶は殆ど無いけど、腹抱えて笑った記憶はあるので、面白かったことは確かです。転換が雑だとか、声量不足で台詞聞こえないとか、そういったものも地蔵中毒だとなんだか許せてしまう。ある種の様式美というかさ、もしも転換がスムーズだったり、照明や音響のタイミングがバッチリだったら、地蔵中毒の面白さは半減してしまうかもしれない。あの粗雑さも含めて『地蔵中毒』なんだろうなと思う。面白い台詞が聞こえないのは勿体無いなとは思うけどね。

あと、あのラストに向けての疾走感とカタルシスは卑怯過ぎたな。まさか地蔵中毒で涙腺緩むとは思わなかった。今思えば強引かつ説明する事すら陳腐に思える出鱈目な内容なんだけども、あのラストに大谷さんのシュールレアリスム的美学を見た気がするのです。

前日のSNSで「超満員です」とのアナウンスがあって、実際に劇場に来てみたら想像以上の超満員で(立ち見も出てた!)、ここであの悪夢のような芝居を観るのかと思ったらめちゃめちゃ興奮した。薄暗くてぎゅうぎゅうの劇場で見る地蔵中毒はいろんな意味で凄かった。

 

劇場出て三歩で笑った余韻以外全て忘れられる芝居が観れて幸せな9月の始まりでした。